真田幸村と六文銭

sanada_hg.jpg九度山の「真田庵」の入り口の扉には六文銭が彫られています、地元に住んでいながら真田幸村の旗印がなぜ?六文銭なのか知りませんでした;;
1600年(慶長5年)、天下分け目の関ケ原の合戦で幸村は父と共に西軍に加わりましが、西軍は敗退。幸村は死罪に処せられるところでしたが、東軍にいた兄信幸の嘆願により、これを免れました。
「真田昌幸とその子幸村に、所領没収並びに高野山蟄居を命じる」
これに従って同年10月9日、幸村父子は真田家の菩提寺である高野山蓮華定院に身を寄せ昌幸65年、幸村33才の時のことでした。
こうして幸村父子の隠棲生活が始まりましたが、その年の冬に庵を九度山に移しました。その跡地に建つのが善名称院(ぜんみょうしょういん)、いわゆる真田庵です。
で、六文銭の由来を調べると以下の様なことらしいです。

「六文銭の旗印は戦い上手の証」・・・・・
1567年(永禄十年)、武田氏に仕える信濃国上田城主真田昌幸に、二人目の男の子が誕生しました。これが後の真田幸村です。
1582年(天正十年)、武田勢は、天目山の戦に破れ、昌幸の軍も上田城に引き返すことになりました。ところがその途中、四万余の北条軍に遭遇してしまったのです。
「わが軍は、わずか三百。これでは到底勝ち目がない。さて、どうしたものか。」思案に暮れる昌幸の前に、当時15才の幸村が進み出ました。
「父上、私によい考えがあります」
「おお、幸村か。よい考えとは何じゃ」
「私に紋のない旗をお与え下さい」
幸村はその旗に北条方の武将松田氏の旗印永楽通宝を描いて兵に持たせ、軍を六隊に分けて闇討ちをかけました。北条方は松田が謀反を起こしたと勘違いして大混乱。それに紛れて真田勢は無事上田城に帰り着いたのです。
「でかしたぞ。幸村。これにちなんでそなたの旗印には六つの銭を描くがよい」
こうして、幸村は六文銭の旗印を持つことになったのです。
という事らしいです。
で、次に疑問をもったのが「なぜ?他の場所じゃなく九度山の地を選んだのか?」です。
また調べてみようかと思ってますが、このあたりの情報をお持ちの方コメント頂けるとうれしいです・・・・・

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